Wisdom.199

‟官僚制的支配からアイロニカルな没入へ”

官僚制的支配

 

1 一円入札と標準化

山本の構想が「大丈夫」と感じさせる理由の一つは、山本自身が、第三者の審級の引き起こす問題を熟知していることにある。この点についての山本自身の議論を追ってみよう。山本が強く批判する現象に、「一円入札」がある。公営住宅の設計が入札方式で行われると、必然的に落札価格は一円に近づく。その背景には、公営住宅の設計など、「誰がやっても同じ」だという思想があると、山本は言う。

確かに、「誰がやっても同じ」でないのなら、一番安い代金を提示したというだけでされることはない。例えば、漫画家や小説家を選ぶとき、「原稿料が高いか安いか」だけで選ぶことはない。いくら安くても、面白くなければ何の価値もないからだ。

では、なぜ公営住宅の設計は「誰がやっても同じ」なのか。それは、その設計モデルが定型化され、標準化されているからだ。山本は、都営住宅については、平面図・構造システム・設備システム・詳細図のほとんどがマニュアルにまとめられていて、設計者の役割は「その標準設計に則ってただトレースするに等しい」と指摘する。

 

2 官僚制的支配

山本は、こうした標準化された空間は、規律訓練型権力の帰結だと言う。

十八世紀までの中世都市では、修道院やギルドのような中間集団が、それぞれの地域社会で住宅の提供や経済活動、医療・介護のような役割を果たしてきた。ここでは、空間が用途ごとに厳密に切り取られることはなかった。また、そこに属する人たちは、地域ごとの中間集団に所属し、固有の役割と資格を持っていた。

これに対し、近代においては、すべての国民の均一化が目指され、特定の中間集団に属したり、特定の地域社会で固有の役割を担ったりすることが否定される。建築も均一化の原理に従い、その場所の固有性を無視して、誰もが同じサービスを受けられることが目指される。それぞれの建築は、「類型化(記号化)され」た用途ごとの機能を果たすためだけに使われ、「その場所の固有性に左右され」ない建築となる。居住専用の住宅、病院、介護施設、学校、図書館などは、いずれも用途ごとに厳密に切り分けられられている。

こうした近代の空間では、支配の対象となる人々が均一化される。他方で、支給する政府の側も、主体的な選択を行わず、利益の均一な配分を継続させる役割を担うだけの存在になる。支配を受ける側も、支配をする側も、支配について無自覚になる。こうした非主体的な支配のありようを、山本はアレントにならい「官僚制的支配」と呼ぶ。

こうした分析は、大澤の議論とも神話的だ。固有の人格の支配は、現前する崇高な第三者の審級の支配である。これに対し、第三者の審級が抽象化されると、それは、全空間・全時間を均一に支配するものになる。

国家レベルで考えると、中世においては、国王の身体のように、現前する崇高な第三者の審級が国家秩序を形成していた。他方、近代においては、国家を形成する第三者の審級は、法である。その支配を受ける側は、どこにいても、常に権力の監視にさらされる。また、誰もが、特定の身体との距離に関係なく支配を受けることになり、一人ひとりの個人の身分は均一化する。こうした非主体的な支配は、まさに山本の「官僚制的支配」の特徴であろう。

 

3 標準化により奪われるもの

官僚制的支配は、一見すると心地よさそうである。特定の人格の支配から解放され、しがらみのない生活を楽しむことができるように見えるのだ。標準化された住宅設計も、合理的で、居住のためには申し分ないのではないか。

しかし、山本は、建築家が官僚制的支配に組み込まれることは、「有罪」なのだと断言する。官僚制的支配の特徴は、固有の思想のないところにある。建築は、「その場所との関係で考えられるべきものだ。」他方、標準化された建築は、その場所から切り離される。その場所を共有する他者のことも気に掛けなくてよいように作られる。山本によれば、「他者と共にいるという感覚、他者を必要としている感覚、他者と共に世界を共有しているという感覚を剥奪する空間」であることが問題なのだ。こうした空間は、大衆を孤独感に導く。

さらに、標準化された建築は、その地域から記憶を奪ってしまう。建築に示された理想は、「100年後の住人に伝えられる」。しかし、その場所の固有性を無視する標準化された建築は、ただひたすら機能を果たすことだけを求められる。隣に住んでいた家族がいなくなり、ディベロッパーがいくつかの宅地を集約してマンションに建て替える。これは、当たり前の光景になっているが、そうなると、「世代サイクルごとに住宅は消滅する」し、「都市環境の継続性も破壊」される。

また、建築に求められるのは、その内部で、類型化された機能を果たすことだけだということになれば、誰も「景観(exterior appearance)」に注意を払わなくなる。

官僚制的支配は、他者と共に生きる感覚を奪い、地域から記憶を奪うのだ。

 

4 官僚制的支配と抽象的な第三者の審級

以上の山本の議論をまとめると、次のようになる。

無思想的な支配が、均一なサービスを提供しようとする。これが官僚制的支配だった。そして、構成員は、それぞれ異なる個人でありながら、支配の規則が内面化される。孤立していながら、同じような考え方をする。それゆえ、その規則が、仮に不合理であっても、容易には改善しない。これは、抽象的な第三者の審級がもたらす深刻な病理現象についての適切な分析だ。

ところで、2に指摘したように、抽象的な第三者の審級が崇高な現前から抽象化し内面化して行くのは、現前しない他者としての第三者の審級の本性によるものだからだ。とすれば、国家の内部のみならず、地域社会圏の内部で、官僚制的支配が生じる可能性がある。

山本は、官僚制的支配の病理を熟知していた。とすれば、山本の地域社会圏は、その内部で、こうした病理現象が生じることのないように、意識的な配慮がなされているはずだ。それはどのようなものなのか。

 

 

アイロニカルな没入

 

1 資本主義

山本の構想を検討する前に、第三者の審級の抽象化の後に生じる現象も考えておこう。大澤は、第三者の審級が抽象化し、パノプティコン的存在になった後のことも視野に入れた議論を展開している。

大澤によれば、私たちの社会では、抽象的な第三者の審級を次々に廃棄し、より包括的な第三者の審級へと置き換える運動が展開している。具体的にはこういうことだ。近代初期には、第三者の審級によって承認される行為の幅は、まだまだ狭いものだった。例えば、プロテスタントの地域では、内心で、カソリックや他の宗教を信じることは許されても(内心の自由の承認)、公然と礼拝したり、境界を樹立したりすることは許されなかった(宗教活動、宗教的結社の自由の否認)。同性愛を刑罰で禁止したり、特定の人権を奴隷化したりする地域もあった。しかし、その後、時代が進むにつれ、第三者の審級が承認する行為の幅はどんどん広がって行く。あらゆる宗教の信者が、公然と礼拝し、団体を作り、モスクや教会を建設することができる。家族関係は多様化し、親や親族の同意がなくても結婚ができるようになる。場合によっては、同性婚も許容される。人種差別の撤廃も進み、出自によらず、社会のあらゆる地位につくことができる。

大澤は、これこそが資本主義という現象の本性だと言う。資本主義とは、資本を投資し、利潤を獲得することを積極的に承認する構想だ。投資が利潤を獲得できるのは、投資をした時点と、利潤を獲得する時点で、第三者の審級が承認する規範が異なるからだ。

例えば、典型的な資本主義の運動とされる技術革新について考えてみよう。一台の自動車を作るのに十万ドル必要だったところで、一万ドルで製造できるようになる技術Rが登場したとする。この技術Rが第三者の審級によって承認され、一般的になれば、自動車一台の値段は一万ドルまで下がってしまう。しかし、第三者の承認が、まだ技術Rを包括していない段階では、技術Rに投資した者は、一万ドルで製造した自動車を十万ドル近い価格で売ることができる。資本は、将来妥当する包括性の高い第三者の審級を先取りすることで、投資したもの以上の利潤を受け取ることができるのだ。

このように、技術革新という現象もまた、第三者の審級の更新という枠組みで説明することができる。

 

2 アイロニカルな没入

資本主義が、第三者の審級を次々と廃棄する運動を続ける結果、興味深い現象が生じる。それが、アイロニカルな没入である。

アイロニカルな没入とは、意識の水準では距離を置いている対象に、行動の水準では強くコミットメントしてしまう事態を言う。典型的には、ボーアの蹄鉄が挙げられる。ある時、ある友人が、科学者ボーアの家に行くと、ドアに幸せを呼び込むという迷信のある蹄鉄が打ち付けてあった。友人が、科学者ともあろうものがなぜ迷信を信じるのかと尋ねると、「別に迷信を信じているわけではないが、信じていない人にも幸せを呼び込むらしいから」と答えたと言う。

こうした態度は、私たちの社会に広く流布している。例えば、明治神宮や川崎大使の初詣客に「神様を信じているのですか?」と問えば、「信じているわけではないけれど、信じていなくてもご利益があると思うから」とボーアと同じような答えをする人は多いだろう。

大澤は、現代的なナショナリズム、原理主義者のテロリズム、原子力発電への耽溺といった現象は、いずれも、このアイロニカルな没入の事例として分析ができると言う。

 

3 資本主義が導くアイロニー

なぜ、アイロニカルな没入が生じるのか。

それは、資本主義が、第三者の審級を次々に否定する運動を進めるからだ。資本主義の運動は、これまでの社会規範とか社会の価値と呼ばれるものを、どんどん廃棄する。「常に、この第三者の審級は、本当の第三者の審級ではない」と否定されるのだ。例えば、資本主義の運動は、神道の神々を廃棄し、蹄鉄のおまじないを廃棄する。第三者の審級が包括していない「外部」が数多く存在しているうちは、この否定の運動は行き詰まらない。私たちの社会は、社会の外部にいた人種・性別・身分の人たちを、より広く包括する第三者の審級を追及してきた。

しかし、あるところまで行くと、もはや「外部」が存在しなくなる。例えば、家族に関する価値について言えば、封建的な家長中心の共同体を正しい家族とする家制度の下では、夫婦の合意だけで成立する核家族は異端であったが、現代では、核家族は当然に承認される。さらに、シングルマザーや一人暮らし、同性愛カップルや多夫多妻なども、家族の形態として承認されて行けば、やがて、承認されざる家族というものがなくなる。

こうした状況で、さらに、第三者の審級を廃棄する運動を続けようとすると、何が生じるか。あらゆる規範の否定という態度である。家族の例でいえば、あらゆる家族が承認された状況で、なお、これまで妥当してきた第三者の審級は本物ではないとして否定の運動をすれば、核家族を承認する規範、シングルマザーを承認する規範、同性愛カップルを承認する規範の全てを否定しなくてはならない。こうして、社会に妥当する規範の全てに否定的に関わることになるのだ。

このようなあらゆる社会規範を否定的にとらえ、第三者の審級から距離を置く態度のことをアイロニーという。

 

4 意味なしに生きることの困難

資本主義の進展がアイロニーを導く、との大澤の議論は、明快で説得的だ。しかし、その先が厄介だ。アイロニーとは、規範に対し距離を置く態度のはずだ。それにもかかわらず、なぜ、同時に、何かに没入しなければならないのだろうか。

それは、結局、私たちが規範なしに生きることができないからだ。いかなる規範の拘束も受けないということになれば、私たちのあらゆる行為に、優劣正邪がつかなくなる。私たちの生は、そうした事態に耐えられない。そこで、意識の上ではアイロニカルでも、行動の水準では、何等かの規範を選び取らなくてはならない。例えば、仏教もキリスト教も神社の初詣も無神論も、たとえくだらないと思っていても、宗教的にどう行動して良いか全く分からない状況よりは従った方がマシなのだ。だから、意識の上で信じていなくても、初詣や魔除けの蹄鉄にすがってしまう。

こうした事態を大澤は、カサノヴァの例を引いて説明する。

カサノヴァは、漁色家で知られた人物だ。彼は、ある時、魔術師のふりをして田舎娘をわがものにしようとする。このとき、カサノヴァは地面に魔術の円を描き、わけのわからない呪文を唄え始める。そのとき、偶然、嵐がやってきて、稲妻が走る。これに驚いたのは、娘ではなく、カサノヴァ自身だった。彼はあわてて、自分の描いた魔法の円に逃げ込む。この行動は、彼が、雷を冒涜的な自分に対する神罰とみなしていることを意味している。しかし、他方で、カサノヴァは、自分の「魔術」がインチキであることを誰よりもよく知っている。

大澤はこの行為を、雷を「天罰と解釈する方が、無意味な、同定不能な偶然として『それ』が起きているよりは、はるかに安心できた」のだとし、「彼にとって不利で否定的な解釈であっても、何ものでもない偶然にゆだねられているよりは、はるかにましだった」と解説する。つまり、人間にとって最も恐ろしいのは、意味を同定できない事態なのだ。それにくらべれば、どんなにバカバカしくとも、何かが意味を与えてくれる事態の方がマシ、というわけである。

このように、アイロニーに浸りながら、なお、意味を求めようとする姿勢が、アイロニカルな没入を生む。興味深いのは、ここで没入する規範が、アイロニーで否定される規範よりも、はるかに普遍性が弱く、特殊で偏狭であるという点だ。

例えば、近年、極端なナショナリストたちの「普通の欺瞞」批判が目立つ。人権・平等・立憲主義といった普遍的な規範を冷笑したり、欺瞞と位置付けて悦に浸ったりする議論は、書店でも、インターネットでも、あらゆるメディアに溢れている。これは、あれもだめこれもだめの、典型的なアイロニーの姿勢だ。しかし、そうした批判をする人たちも、いかなる規範に則った行動もとらない、というわけには行かない。そこで、偏狭なナショナリズムの規範に没入したり、オタク的としか形容できない趣味に没頭したりする。

どうせ没入するなら、人権や平等という普遍的な規範に没入してほしい。しかし、アイロニーは、そうした規範でも、なお欺瞞的で不十分だという態度なのだ。むしろ、人権や平等が普遍を謳うからこそ、アイロニーはそれを最も強く批判する。結果として、それらの規範よりもはるかに普遍性の弱い偏狭なナショナリズムが没入の対象になる。

このような議論を踏まえると、地域コミュニティが暗い共同体にならないためには、官僚制的支配の病理だけでなく、アイロニカルな没入の病理をも排除できなくてはならないことが分かる。例えば、地域社会圏住宅のようなものを成り立たせるには、共用部の清潔を保ったり、気持ち良く過ごすための最低限度の礼儀を守ったりといった規範が必要になる。そうした規範に、アイロニカルな姿勢をとり、自分勝手な趣味や宗教に没入されると、地域社会圏住宅の構想は危機に瀕する。

さて、以上の考察をまとめておこう。共同体は、第三者の審級によって成り立つ。第三者の審級は、現前する具体的な身体により代理される段階を経て、抽象化される。この段階で生じるのが官僚制的支配の病理だ。そして、それより先には、アイロニカルな没入の段階がある。

地域コミュニティを回復する建築を構想する場合には、その内部に官僚制的支配やアイロニカルな没入の病理を避ける工夫が必要になる。

 

 

引用文献:『いま<日本>を考えるということ』(木村草太/河出ブックス)

『地域社会圏と未来の他者-木村草太』より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献:『日本人と住まい』(上田篤/岩波新書)