Wisdom.104

‟庭”

日本人は、庭の愛好民族だといわれる。これは、外国人がこのんで日本人を評する言葉だが、私たち自身も、なんとなくそうおもっている。しかし、はたして、ほんとうにそうだろうか。たしかに、寺院や旧跡には、古今の名園といわれるものが数しれずある。名もない民家にも、国宝級の庭があったりする。どんなにたてつまった町家の奥にも、丹精こめられた坪庭が、幽玄のかまえをみせる。しかしそれらは、たいてい過去のものだ。現代住宅をみていると、いちがいにはそうはいえない。

 

まちの郊外に、色とりどりの瓦をのせた建売住宅がぞくぞくとたてられてゆくが、それらをのぞいてみても、石や樹木を配した日本の庭らしきものをみかけることは、いまでは少なくなった。建売住宅だけでなく、一戸だての分譲住宅などでも、建設当時には、ちゃんと庭のスペースがあったのに、数年もたつと、増築やなんかで、庭に予定されていたところがどんどんとつぶされていっている。むかしからあった住宅はともかく、最近たてられる庶民の家には、かならず庭がある、とはかんたににはいえなくなってきているのが、その実情のようである。

 

もちろん、その原因には、土地の値段がたかくなったこと、そのために家の敷地がせまくなったこと、などがあげられよう。しかし、最近の家の様子をみていると、庭がなくなったかわりに、自動車や、あるいはその車庫がデンとすわっているのが目につく。一戸だての分譲住宅はもちろん、連棟式の建売や賃貸住宅でも同様である。一戸だての住宅では、玄関さきの庭やアプローチが、車庫になっているケースが多く、連続にたちならんだ建売住宅などでは、前庭は駐車スペース、わずかばかりの後庭は物干場、というのがだいたいのとおり相場のようだ。土地の値段がたかくなったのなら、車庫用地もまたなかなか手にはいりにくいはずだが、それはなんとか確保しようという努力がみえているところをみると、どうやら、庭が車庫にかわったのではないか、と皮肉ってかんがえてみることもできるのである。このような最近の住宅地の風景をみていると、日本人は、庭の愛好民族から、自動車の愛好民族へとうつりかわった、と評されても、いたしかたないかもしれない。

 

たしかに、現代社会において、自動車が生活必需品化してきている、という一面の事実をみとめないわけにはゆかない。人びとは、好きこのんで、庭をつぶして車庫にしているわけではないのだが、そうせざるをえない現代の住宅事情が、そこにはつよくはたらいている、ということも、考慮されなければならないことである。

 

しかしそれにしても、何百年のあいだ、日本人の心の奥ふかくに住みついたはずの庭を愛する心が、近々登場した文明の一利器のために、こうやすやすと消えていってしまうというのは、どうもあまり納得できない話である。これは、ひょっとしたら、そもそも日本人の庭を愛するということ自体に、問題があるのではないか。

 

日本の庭は、むかしからよくいわれるように、それは、お座敷にすわって、「芸術品」として鑑賞するためのものであった。つまりそれは、みる庭であって、そこで運動をしたり休息したりするような、なにかの行為をする庭ではなかったのである。戦前にそだったいまのおとなたちは、子どものころに、母親から「お庭で遊んではいけません」といってしかられた記憶をたいていもっているだろう。その点で、庭を戸外のたのしみの場とする、西洋流の考えかたとは、大きなひらきがある。つまり、庭がそういう「芸術品」あるいは「ぜいたく品」であったがゆえに、一方で、「生活必需品」化した自動車の登場によって、もろくもついえさせる結果をまねいたのではないか。そのことは、子どもべやの増築や車庫建設といった生活要求にたいして、庭のスペースのなかでも最後にのこされる空間が、たいてい物干場であることをみてもわかる。生活の必需品である物干場だけは、自動車といえども、これを押しつぶすことはできない。

 

では、この「する庭」と「みる庭」のちがいは、どうして生まれてきたのであろうか。それをしるために、ここで、西欧と日本の庭の発生史をみよう。というのは、そこに、庭にたいする大局的な二つの考えかたのちがいがみられるからである。

 

ヨーロッパの庭園には、まず住宅に附属wするものとして、パテオとかコート・ヤードといわれる中庭がある。これはもともと、ロの字型の配置をもつ建物の中央のあかりとりと、通路中心をかねて発達したもので、ちょっと日本の町家の坪庭に似ている。しかしそこが人間の行動空間であるという点においては、たんなる視覚空間である坪庭とは、性格を異にする。それはかんがえようによれば、屋根のないホールのようなものである。

 

ところで、ヨーロッパの庭園には、このような私園のほかに、もうひとつ公園がある。そして私園より公園がより発達したところに、ヨーロッパ社会の庭園の特色があるともいえる。

 

そのヨーロッパ公園の性格は、一口にいって「猟園」である、ということができるだろう。いまでも英語のパークparkは、法律用語としては、私猟園を意味している。このような狩猟場としての公園の起源は、古代バビロニアのキルkiruにはじまるようだ。がんらいは、西アジア高原の狩猟民族であったといわれるシュメール人たちが、チグリス、ユーフラテスの低地帯にくだって農業国家をつくったあとも、かれらは、平地に人工的な林野・キルを造成し、そこに野牛、鹿、山羊まどをはなって、しばしば猟をおこなった、という記録がある。

 

つづいてアッシリアの時代になると、これら猟園には、神殿や宮殿、礼拝堂などの建築が数多くたてられる。さらにギリシャ時代には、このような人工林野において、猟からスポーツへの発展がみられた。すなわち、四年に一度、ゼウスの神殿をかこむ神苑においておこなわれたオリンピックがそれである。もちろん今日のヨーロッパの公園では、猟はおこなわれないし、また、かならずしもそれはスポーツの場とはかぎらない。しかし、西アジアからヨーロッパにかけて、狩猟をなりわいとした祖先をもつ人びとのあいだでは、公園はやはり、かつて猟をしたり、動物たちとともにくらした、森の生活をよびおこすイメージをたたえるもののようだ。そこはたいてい、小鳥やリスなどの小動物がはなしがいになっていて、休日になると、人びとはかれらに餌をやりにでかける。おなじことは個人の庭についてもいえる。イギリスやドイツでは、いまでも小鳥や小動物のための水飲み場をつくっている家が多い。

 

さて、では日本の庭はどうか。にわ-ということばは、もともとは、ひろい場所のことをさしていったようだ。『日本書紀』のなかにも、神武天皇「まつりのにわを 鳥見山の中に立つ」というような表現がみえる。いまでも、農家や町家では「にわ」といえば、屋内外の作業用のひろい土間のことをいい、草木などを植えたいわゆる庭は、「前栽(せんさい)」とよばれているのがふつうだ。

 

すると、いま私たちが一般にいう庭のことを、むかしの人はなんとよんでいたのであろうか。記録上、日本でいちばん古い庭園は、蘇我馬子が飛鳥のじぶんの家につくった池や島をもつ庭で、当時それがめずらしかったのか、人びとは馬子のことを「島の大臣(おとど)」とよんだ。また、大伴旅人(おおとものたびと)が、九州の任地から奈良の平城京の自宅にかえったときによんだ歌に、

 

妹(いも)として ふたり作りしわがしまは 木高かくしげく なりにけるかも (万葉集四五二)

 

というのがある。そのほか『万葉集』などには「屋前(にわ)」という用例もないではないが、それらはだいたい家の前の空地をさし、人工的につくられた本格的な庭のことはしまとよんでいたようだ。文献によると、だいたい平安時代のころまで、そういう語例がのこっている。

 

そこで、日本の庭が、かつてしまといわれたのは、海と関係があったためではないか、とかんがえられる。千数百年まえまでの日本は、げんざい、沖積平野となっているところも、葦の生いしげるあさい海、もしくは河川の乱床地帯であるところが少なくなかった。そのなかに点在する島または砂洲(さす)が、当時の人びとの居住地とみられる。その海や川の乱床地帯が、弥生海退といわれる海退現象、河川の沖積作用、さらに大陸からつたわった河川のコントロール技術等により、徐々に陸化し、沃野と化していったのである。そこで、これはひとつの推測であるが、平野に居住するようになっても、人びとは、かつてのすみかであった島または砂洲のイメージをもって、じぶんたちの庭園または家作地をしまとよんだのではないか。

 

  すみのえの 岸に家もが 沖に辺(へ)に よする白波見つつしのはむ (万葉集一一五〇)

  荒磯(ありそ)ゆも まして思へや玉の浦の 離れ小島の夢にし見ゆる (万葉集一二〇二)

 

などという万葉の古歌に、当時の人びとの白砂青松の海景へのあこがれ、海をなつかしむ生活感情をみることができる。

 

さらにそれは、日本民族そのものの「ふるさと」感覚にもつながるものではなかっただろうか。

 

日本民族がどこからきたか、ということは、いまだに学問の世界においても、大きな謎になっているが、それが大陸であれ、南島であれ、いずれもこの島に、移民として、あるいは漂着民として、やってきたものであろう、というひとつのみかたがある。強力な部族による「日本征服」設というものもないではないが、そのばあいも、それらの部族が、主体的に行動をおこして日本を征服したというより、大陸の強大国家に押されて、やむをえず、日本を一時的避難場所として寄留し、それがそのまま定着したものとかんがえるのである。大陸国家と日本に定着した部族とのあいだに、「本国-植民地」というような政治的関係がきわめて稀薄だったことが、それをものがたる。大半は、かえるべきふるさとをうしなった「本国喪失」人間となったのであった。であるからこそ、、それ以以後も、日本民族はたえず海をみつめ、「幻のふるさと」を、海のかなたにもとめたのではなかったか。いまも沖縄にのこっているニライカナイ-「海のかなたの祖霊のいます国」という思想は、古代日本人の心のなごりをつたえるものではないか、とみるのである。

 

たしかに、『万葉集』をみると、庭の描写は、たいてい海景模写であり、それはその後もうけつがれてゆく。平安時代に、橘俊綱が編纂した世界最古の庭園造営技術書といわれる『作庭記』に、「池の石は 海をまなぶ事なれば かならず いはね なみがへしの石をたつべし」とのべられているように、日本庭園の池は、海を模してきたもの、といっていい。

 

最近、私も参加しておこなったある住宅調査で、日本人のもっともこのむ庭木は松である、という結果がしめされた。幾百年の風雪に耐えた荒磯の老松こそは、いまもむかしも、日本人の心のなかに、海への永劫の表象として、おもいしのばせるものがあるのだろうか。

 

さて、このように、日本人の庭づくりが、海への回帰をしめすものであれば、日本の庭がみる庭である、ということも理解されてくる。なぜなら、海は、とくに当時の人びとにとっては、森のように自由に駆けずりまわることのできない生活空間であったからだ。そこから、きわめて精神性のたかい、それゆえに抽象性のたかいみる庭としての日本の作庭技術が発達してゆくのである。

 

このようにかんがえれば、「精神的よりどころをうしなった」とされる現代日本人が、庭をないがしろにするのも、ある意味で当然のことであろう。

 

では、庭の復興のためには、いまいちど、なんらかの精神の復興が必要なのであろうか。しかしそれはどういうものであろう。現代科学の力によって、海のむこうになにがあり、そしてなにがおこりつつあるかを、私たちは逐一しるようになった。古人のもったような海への神秘性は、私たちにはもうほとんどない。また私たちは、いまこの四つの島を、日本民族の故郷だとおもって疑わない。もちろん海以外のものに、精神的表象をもとめることも自由であるが、それと作庭とをむすびつけるどういう必然性があるだろう。

 

私は、それよりも、現代社会において、庭のもつ物質的な機能をもっと重視してゆきたいようにおもう。樹木、草花、小鳥、虫、それに太陽、におい、風、空間-。西欧では、日曜日の朝、家族そろって庭やベランダで朝食をとるところが多い。そういう生活の余裕を、私たちの庭や、アパートのバルコニーにも、もっともちたいものである。

 

もうひとつ例をあげると、西洋人は、庭でも公園でも、すぐ裸になって「人干し」をする。かれらにとっては、庭とは、人干場のようである。もちろん気候条件の差異もあるが、庭で裸になってもはばからない、というところがうらやましい。私たちのばあいには、大のおとなが、裸ならずとも、昼ひなかからゴロゴロ寝ころんだり、ものを食べたり、おしゃべりしたりするということは、たとえ自分の家の庭やバルコニーであっても、近所のてまえはばかれるのがふつうである。それは家が、文字どおり、まだ休息のたのしみの場になっていないことをしめすのだろう。庭の表象が、森であれどちらでもよいが、そこが人干場にならず、物干場であるという点において、戦後民主主義は、物におよんでも、まだ人にはおよんでいないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

参考文献:『日本人と住まい』(上田篤/岩波新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献:『日本人と住まい』(上田篤/岩波新書)